高杉晋作 倒幕の志士 1839-1867 34511ht“動けば雷電の如く、発すれば風雨のごとし”長州藩の藩論を倒幕に導いた人物であり、日本を植民地化の危機から守った男、高杉晋作。 帝国主義が世界を席巻している時代、弱冠26歳の青年が日本の歴史を大きく動かしました。 長州藩士・高杉小忠太の長男として生まれる。 藩校・明倫館、吉田松陰の松下村塾、更に江戸に遊学して昌平黌しょうへいこうに学ぶ。 文久2年(1862年)幕艦・千歳丸せんざいまるで上海に渡る。 この時、西洋列国の圧力で半植民地化した上海居留地を見て強い危機感を抱いて帰国する。 帰国後、久坂玄瑞・伊藤博文・井上馨らと品川御殿山のイギリス公使館を焼討ちし、また、藩論の航海遠略策を批判する。 文久3年、萩藩の下関における攘夷決行に対する英仏艦の反撃に際し、下関の防備を委任され奇兵隊を組織。 これは、吉田松陰に学んだ西洋歩兵制や清国で見聞した太平天国軍にならったものといわれている。 この後、脱藩の罪により一時入獄。 翌元治元年(1864年)の四国連合艦隊下関砲撃事件では、出獄して藩の正使として講和に応じました。 幕府の征長軍組織化にともなって藩の保守派が実権を握ると再び脱藩し、同年末から翌慶応元年(1865年)にかけて諸隊を率いて下関で挙兵、保守派を倒しました。 10月に下関で旧知の坂本龍馬に会い、上海行の際に入手した拳銃を贈る。 この拳銃は、のちに寺田屋の遭難の時に龍馬が発砲したものとなる。 慶応軍制改革に参与。慶応2年の第二次長州戦争では海軍総督・馬関海陸軍参謀として活躍しましたが、戦後まもなく下関で病死しました。享年29歳。 |